夏と彼女とコーヒーのきもち  

           

                                                    

     

 雪の結晶のように短く儚かった僕の人生は、あまりにも長かった。ずっとあの小さな部屋に

いたけれど、まるで空を自由に飛びまわる鳥みたいに、いろんなものを見てきた。僕の小さな

小さな世界が幕を閉じたのは、1年前の夏の日だった。



 一人の女性がコーヒーを沸かしている。鼻歌を歌いながら、ゆっくりと弧を描きドリッパーに

コーヒーを注ぐ。


 僕が彼女の家にやってきたのはつい先日のことだ。ちょうど、彼女の友達が海外旅行のお

土産を彼女に届けに来た日である。彼女の両腕に包まれて、僕は彼女の部屋に入って行っ

た。部屋の片隅に僕を座らせた彼女は、僕を見る度に優しく微笑んでくれる。僕はそれがたま

らなく嬉しくて、いつしか彼女の虜となっていた。


 彼女がドリッパーをはずすと、部屋中にコーヒー独特の美しい香りが漂った。彼女が嬉しそ

うにコーヒーを氷の入ったグラスに移しかえると、コーヒーは素早く温度を下げた。できること

なら、僕の分のコーヒーも沸かしてほしいと思ったが、それは叶わない夢だった。霊長類です

らない僕に、コーヒーを飲む資格は与えられないのだ。


 彼女はグラスをもってベランダに向かった。途中、彼女が僕を覗き込んで微笑んだりするも

のだから、せっかく冷たくなった僕の体温は、一気に急上昇してしまった。



 僕は氷が好きだった。グラスの中で僕は、氷と意気投合して歌を歌うのだ。冷房が完備され

たこの現代社会では、僕らが奏でるハーモニーは風鈴のような存在であり、彼女の心を和ま

せた。僕が唯一、彼女にしてあげられることだった。

 
 彼女はベランダに座って、足をぶらつかせて、コーヒーを飲むのが好きだった。今日も同じよ

うに、彼女は僕をベランダに運んだ。


「やぁ、猫くん。一緒に日向ぼっこしよ。」


目を細めて伸びをしながらこっちを振り向く子猫に、彼女は呼びかけた。


「今日のコーヒーはちょっと特別なんだ。マンデリンって言ってね、インドネシアの豆なんだよ。」


子猫らしい鳴き声をあげて、のっそりと彼女の隣に歩み寄った。彼女が子猫の喉に手をやると、

子猫は更に目を細めて、気持ちよさそうにする。僕はこの子猫が好きではなかった。彼女が飼

っているわけではないのだが彼女によく懐いていて、彼女のお気に入りでもあるコイツは、僕の

最大のライバルなのだ。そんなことを考えてふとソイツの方を見てみると、僕を横目でチラリと見

て、してやったりというように口元を歪ませる。実に憎たらしい。おかげで僕の体温と表情は一気

に冷めた。そして、なす術のない僕は、グラスの中に黙って顔を伏せるばかりだった。



 「んー。いい天気だねぇ。」


僕が子猫になけなしの闘志を燃やしていると、その重苦しい空気を吹き飛ばすように彼女が言

う。彼女のお馴染みのセリフだ。この一言を聞くことが、いつしか僕の唯一の日課になっていた。

隣や、その隣の家に住んでいる人たちは決して外に出ないであろう、そのくらい日差しの強い日

でも、彼女はベランダでそのセリフを言うのだ。僕が知っている、彼女の魅力の一つだった。今

日も、そのセリフを言うであろう時が迫ってきた。


 ……。……。


 言うべき決定的瞬間を過ぎ、1分以上も待っていても、彼女の声は聞こえてこなかった。







     2

 彼女が入院してから一週間が過ぎた頃、僕は彼女の病院へ連れて行かれた。彼女が友達

に頼んだようだ。


「やぁ、ありがとう。わざわざ悪かったねぇ。」


彼女は何事も無かったように笑いながら、僕を抱いた。小さな円柱の缶に入れられた僕を、

優しくなでる彼女を見ることはとても嬉しいはずなのに、どこかに切なさを感じた。


 彼女は、病院でも毎日僕をポットのお湯で沸かした。彼女の笑顔が日に日に大きくなるのが

目に見えてきた。僕は自分の寿命を目前にして、何一つ悔いのない自分の人生を誇りに思い、

そうしてくれた彼女の全てを愛したんだ。



 それから一週間が経つ頃に、僕の中の何かは、ぶち壊された。強い雨が降る日だった。

 彼女は、死んだのだ。


 僕の命をほんの一握りだけ残して死んだ彼女は、死ぬ間際に、僕だけに笑顔を見せた。朗

らかに息を引き取った彼女だったけど、きっと心の中はズタボロで、僕以外誰にも見送ってもら

えなかったことを哀しんでいたのだと思った。







     3

 彼女の葬儀が終わってしばらく経った頃、僕は彼女の家にいた。病院で使われていた彼女の

私物は、彼女の家に送り届けられていた。


 九月を過ぎて、お日様も里帰りの支度を始める季節が来ると、僕の苦手なあの猫も、ここに来る

ことはなくなった。彼女との別れを覚ったのか、寒さを感じたのかは解らない。だけど、子猫の気配

が跡形もなくなっていたのは明確だった。そして、家の中は、住人がちょっとだけ家を空けているよ

うな、普段と何一つ変わらない様子で、黙り込んでいた。


 きっと彼女と共にこの家に存在するすべての生気は亡くなってしまったのだと、僕は思った。そ

して彼女は自分の代わりに、ほんの一握りの命を僕に与えて去っていったのだと、僕は知ってい

た。

 


 最後の最後に過去最大の笑顔を見せた彼女に向けて、小さな缶に閉じ込められた僕は、大き

な部屋の隅っこで泣き言を漏らした。


「ちくしょう。」

僕の声が唯一、響いた瞬間だった。

                                               

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